「体罰は教育だ」と未だに世迷い事を言っている大人たちへ

仁の本音

ここ最近ネットやニュースなどで、躾(しつけ)と称して子供に体罰や暴行・虐待をして逮捕されるという事件を、本当によく目にするようになりましたよね。体罰というのは僕らが子供の時代から日常的に存在していましたが、ここまで頻繁に見聞きしてしまうのはネットやSNSが普及したせいなのか、それとも体罰の力加減が分からない親や大人が増えてしまったのか。

どちらにしろ、躾や教育のための”体罰”は昔も今も変わらずあるわけですが、今回は「果たして教育に体罰は必要なのか?」ということについて、僕なりの考えを話していこうと思います。

 

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体罰を受けている子供の心理状態

僕は、反抗期がありませんでした。いや、正確には「反抗することが許されなかった」といった感じでしょうか。父親がとても厳しく、僕は子供の頃から日常的に気を張った状態を維持しながら生きてきました。

父親に関する細かい話はここでは省きますが、子供である僕にとっては、いつどんな時でも父親の言うことは絶対で、いかなる時でも父親に対し絶対服従の姿勢を貫き通さなければならない。例え失敗しても言い訳は一切許されないし、言い訳なんかすればタダでは済まなくなる。

常に「父親が、僕に何をさせたいのか?」を察知し、命令される前にそれをやらなければ僕はこの家に居られなくなる。父親に絶対服従の姿勢を示し続け、父親の出す要求に答え続けることが、僕が生き残るための唯一の方法だった。

でも残念なことに、僕ってすごく要領の悪い子供だったんですね。何とか父親に認めてもらおう・怒らせないようにしようと頑張るんですが、もう毎日がまさにダメ出しのオンパレード。毎日怒られてました。今なら「ずいぶん理不尽なことで怒られたりもしたな」と冷静に振り返ることが出来るんですが、その当時は「父親の要求に答えられない自分が悪い、こんな出来損ないに生まれてきた自分が悪いんだ」と本気で思い、大人になってもずっと自分を責め続けていたんですね。まさに恐怖に怯える小動物のように、毎日ビクビクしながら生きていました。

そしてそんな僕の卑屈な態度は、典型的な”いじめられっ子”の特徴を醸し出すことになりました。ただ、僕は小さな頃から背が高く、また父親の厳しいシゴキによって鍛えられていたので、僕に喧嘩を売ってくるようなヤツはいませんでした。実は僕をいじめていたのは、大人です。学校の先生やスポーツ(僕は幼い頃から剣道をやっていました)の指導者など僕ら子供を守ってくれるはずの大人から、いじめや嫌がらせ・あからさまな体罰などを受け続けてきました。だから子供時代の僕にとっては、大人、特に大人の男性というのはもう恐怖の対象でしかありませんでした。大人の男性を前にすると、緊張して直立不動になり何も話せなくなる、まさにそんな状態でした。特に小学校時代の担任の教員(男性)は酷かった。僕だけでなく、毎日誰かが殴られていた。それも、殴られた反動で体が吹き飛び、後ろの壁に全身を叩きつけられるほどの勢いで。

 

ところで「教育において、場合によっては体罰は必要だ」と考える人が、けっこういますよね。子供が間違った事をした時は殴ってでも教えなければいけない。殴ることによって、どれだけ悪いことをしたのかが相手に伝わる。または口で言っても分からない子供は、殴ってでも教えなければならない。そう主張する人がいます。

では実際に殴られた子供はどう感じているか?
体罰を受けている時の子供の心の中には、一体どんな感情が生まれているのか?

体罰を受けている子供が考えている事、それは「この体罰が早く終わってほしい」という事だけ。
体罰を受ける側からすれば、体罰というのは恐怖でしかありません。そして恐怖を感じれば、人間というのは大人でも子供でも反射的に「いかにしてこの危機的状況から脱するか?」という思考に切り替わります。なぜかと言うと、これは本能だからです。強い恐怖を感じると、人間の中にある生存本能が反応し、「なぜ叱られているのか?」「一体自分の何が悪かったのか?」ではなく、「どうすれば、この状況から一秒でも早く逃げられるか?」という事しか考えられなくなるのです。
つまり、いくら正しいことを言っても、子供には伝わってないということ。

でも、「何が悪かったのか、その時は分からなくても、後になって子供なりに考え反省してくれるはず」そう思うかもしれません。しかし体罰を受けて一旦恐怖を感じてしまった子供は、「自分の何が悪かったのか?」ではなく「今後どうすれば体罰を受けなくて済むようになるか?」と考えるようになるんです。そう考えてしまうのは、その子が悪いわけでもダメなわけでもなく、それが人間の本能だからです。

 

ところで、最近の風潮として「褒めて伸ばす教育」という考え方が言われていますよね。子供を育てるのに、褒めて伸ばした方がいいのか、それとも叱って厳しく教育した方がいいのか、それとも時と場合によって両方を使い分けた方がいいのか、意見が分かれています。これは、いわゆる「いかにアメとムチを上手く使うか」という事になるのですが、正直言って「褒める教育」と「叱る教育」のどっちがいいのか?なんて言ってる時点で、既に教育の本質からずれてしまっていると思います。褒めることも叱ることも、ハッキリ言って教育とは関係無いと僕は思っています。

褒めることも叱ることも、結局は相手を自分(親)にとって都合よく操るためのテクニックでしかない。単なる一方的な価値観の押し付けでしかない。
教育の目的とは一体何か?教育とは、「自分の人生で何かが起こっても、自分の頭で考え、自分の意思で判断し、そして自分の責任において決断し行動に移せる力を身に付けさせること」だと僕は思います。

では、自分の頭で考え自分の責任において行動できる人間になるためには、一体何が必要か?それは「自分を信じる気持ち」です。
自分を信じることが出来ないから、自分の考えにも疑いの目を向けてしまい、何も決められなくなる。自分の人生における重要な決断さえも他人任せにしてしまい、自分が望む人生も生きられなくなる。

僕は幼い頃から社会人になるまで、父親の敷いたレールの上をひたすら歩いてきました。何が正しくて何が間違った事なのか、善悪の判断基準や社会的な常識をきっちり叩き込まれてきました。

そうやって社会人になった僕は、気づけば自分一人では何も決められない出来損ない人間になっていました。自分の意見は聞いてもらえず、一方的に価値観を叩き込まれ続けてきた僕は、自分の頭で考えるということが出来ない人間になっていた。他人から指示されなければ何も出来ない人間になっていた。これまでの人生で「自分の話をちゃんと聞いてもらった」という経験の無かった当時の僕には、自分で考え自分で判断するという発想すら、カケラもありませんでした。

教育とは、親や大人の価値観・常識を子供に押し付けることではありません。親や大人にとって都合の良い子供を作り出すことではありません。親の理想通りの子供に育てることではありません。
そもそも、親や大人が正しいとも限りませんよね。

僕は子供の頃、大人というのはどんな時でも絶対に正しい存在だと信じていました。大人が間違うことは無い、嘘を言うなんてことは無い、そう思っていました。
でも実際、自分が大人になってみると、そうではないことが分かりました。おそらくあなたも大人でしょうから、僕の言っている意味は分かりますよね。

どこを見渡したって、完璧と言えるような大人なんて一人もいない。大人だって、結局は子供と一緒。子供の何倍も生きてはいても、毎日が失敗だらけ・間違いだらけの未熟な存在。子供に「嘘をつくな」と言いながらも、自分に都合の良い小さな嘘・小さな裏切りを繰り返す大人はそこら中にいる。他人に対してどころか、自分自身に対しても嘘をつき、自分の心を誤魔化し、真実から目を背けている大人は大勢いる。

大人だって子供と同じ、一人の弱い人間。「子供は未熟で半人前だから、大人が教えてやらないといけない、躾けて(しつけて)やらないといけない。」と言っている大人に限って、自分の未熟さに気づいていなかったりする。そもそも子供の悪い部分というのは全て、大人から学んだものなんだから。

教育とは、大人の価値観を子供に都合よく押し付けることではなく、子供の”考える力”を引き出してあげること。何が正しいのか自分の頭で考え判断し、自分の意思で行動を起こし、その結果に対する責任を負う覚悟を持つ、そんな人間になっていけるよう僕ら大人が人生の先輩として力添えしてあげること。

そのためにも、どんな時も子供の話や考えをきちんと聞き、その気持ちをしっかり受け止めてあげなければならない。
子供の間違いを正す前に、まずは自分の頭でしっかり考えさせる。そして自分の出した答えを自分の言葉できちんと説明し、自分の言葉で自己主張させる。そして、子供なりに出したその答えを、僕ら大人がきちんと受け止め、認めてあげる。

子供が例え間違ってたとしても、子供の考えを頭ごなしに否定してしまえば、子供は自分自身の考えを否定するようになり、自分で考えることをしなくなる。自信を失い、自分が取った行動の責任すらも怖くて背負えなくなる。そして体罰というのは相手(子供)の気持ちや意見だけでなく、相手の存在そのものを否定し排除しようとする行為。子供にとって何らプラスにはならない。

まずはその子の存在をきちんと認めてあげること。たまに子供の教育を”動物の調教”と勘違いしているような人がいますが、教育とは”対話”です。相手を、独立した人格を持つ一人の人間として扱い、人として対等の目線で向き合うことによって、子供の中に自信と共に様々な自覚や責任感が芽生えるのです。

 

そして体罰は、今後の子供の人生にどのような影響を及ぼすのか?体罰を受けながら育った子供は、一体どんな大人へと成長していくいのか?

体罰を受け続けて育った子供は、「自分の思い通りにいかないことがあると、暴力や圧力を使って解決すればいい」そう考えるようになります。中には自分の経験を反面教師とし、力や暴力を一切振るわない人間になる人もいます。ですが子供の時に強い体罰を受けながら育った人の大多数が、「困ったことが起これば、言葉ではなく力ずくで解決すればいい」そのように学習してしまうんですね。

そしてそんな人に子供が生まれれば、自分の子供にも体罰を振るい、その子も同じように自分の子供が生まれたら同じことをしていく。暴力の連鎖は続いていきます。

そして反対に、体罰ではなく対話によって育てられた子供はどのような人間へと成長していくか?
自分の考えを頭ごなしに否定されることなく、対話によって互いに理解し合うような育てられ方をした子供というのは、トラブルや困ったことが起こっても相手との対話や話し合いによる解決を目指すようになります。

「子供が大人になった時、どのような人間になってもらいたいか」というのを考えれば、子供に対する教育方針も自ずと決まってくるということです。もちろん人間の人格というのは親からの教育だけでなく、様々なものから影響を受けながら作られていくものですので、上に書いたようになるとは限りません。ですが、その子の10年後・20年後を見据えた上で子供と接していけば、教育において大きく道をそれる事はずいぶんと少なくなってくるのではないかと思います。

ちなみに「褒める教育・叱る教育」についてですが、基本的に僕はそういった賞罰教育には反対です。というのが賞罰教育というのはやり方を間違えると、他人の目ばかりを気にする自己肯定感の低い人間に子供を育ててしまうからです。

例えば子供が間違った事をした時など、子供ときちんとコミュニケーションを取ることをせず頭ごなしに叱ったり罰したりを繰り返していると、子供は「それがなぜ悪いのか?」ではなく、「どうすれば叱られなくて済むようになるか?」と考えるようになります。

すると、自分を叱る人間がいる時はビクビクして大人しくなり、反対に自分を叱る人間が誰もいない時は、好き勝手なことをするようになる。つまり自分の行動の判断基準が「それが良い事か?悪い事か?」ではなく、「それをすることによって叱られるか?叱られないか?」になってくる。

逆に子供が良いことをした時に、子供のご機嫌を取るかのような過剰な誉め方をしたり、または何か良いことをすればご褒美をあげるといった育て方をした時も、同じ現象が起こります。
つまり、自分を褒めてくれる人がいる時は自ら進んで良いことをするが、自分を評価してくれる人がいなければ、何もしなくなる。例えば、学校の先生がいる時は積極的に掃除やゴミ拾いをするけれど、先生が居なければサボったり手を抜いたりするようになる。こういう子供の行動の判断基準は「それが良い事か?悪い事か?」ではなく、「それをすることによって褒めてもらえるか?」であり、ただ単に褒められることを目的として行動しているに過ぎないのです。

叱って育てるにしても褒めて育てるにしても、どちらも根っこは結局同じなんです。賞罰教育によって育てられた子供の行動基準は「叱られないようにするため・褒めてもらうため」であり、常に他人の評価を中心にして自分の行動を決めているのです。

そういう子供はやがて、他人の目や他人の評価にばかり振り回される人間へと成長していきます。人間関係で悩み始めるのも、もう時間の問題ということです。

人が行動する上で大切な事は何か?それは「その行動が、人として正しい事かどうか?」という事だと思います。だから僕自身の子供に対する教育方針は、「それが人として正しい事なのかどうか、自分の頭で考えろ。そして人として正しいと判断したなら、それを貫き通せ。」です。

僕は基本的に、子供を叱ることも褒めることもしません。ただ、誰よりも子供の話を聞き、誰よりも子供の気持ちをしっかり受け止めてあげているつもりです。そして、常に子供と同じ目線で向き合い、一人の独立した人格を持つ対等な人間として子供の存在を認め、そして常に子供に対して感謝の気持ちを持ちながら接しています。

そして子供が何か結果を出した時、例えばテストで良い点を取ったりスポーツで勝ったりした時などは、「良くやったな」と言って上から目線で褒めるのではなく、「おお、すごいじゃん!」とか「良かったね!」と言って子供と一緒になって自分の事のように喜んであげます。

人というのは、自分がやったことで誰かが喜んでくれたら嬉しいものです。自分の行動が誰かの役に立った、自分の存在が誰かの喜びに結び付いた。そう感じると、人の喜びが自分自身の喜びへと変わります。心の底から自己肯定感が上がり、生きるエネルギーがあふれ出してくるのです。

大事なのは”褒めること”ではなく”喜んであげること”。僕の言葉足らずで上手く伝わらないかもしれませんが、褒めるというのは”相手を上から評価すること”。それに対して喜ぶというのは”相手に感謝すること”。言い方は悪いですが、褒めるという行為はある意味相手を自分より下だという前提に立っているのに対し、喜ぶというのは相手と対等の関係なんです。

例えばあなたの上司が仕事で結果を出した時、部下であるあなたが「よく頑張りましたね、偉いですね」とか言って上から目線で褒めたら、上司は多分「おい、お前は何様のつもりだ!」とキレると思います。つまり褒めるというのは常に上下関係が前提となっており、上の人間が下の人間に対して行う行為なんですね。

それに対して、相手の行為に対して喜ぶというのは、上下関係は一切関係ありません。相手のしてくれたことに対して喜ぶというのは、純粋に感謝の念から生まれる感情です。相手の評価によって上がった自己肯定感は、相手の評価によって簡単に下がります。でも感謝の念は、自己肯定感そのものを底上げしてくれる。
似ているようで、全く違うものなんです。

 

虐待を行う人間の心理

一人の自立した人間として生きていくためには、自信を持つことが実はとても重要です。自信と言っても外見的な優越感や、または他人と比べて自分の方が勝っているといった表面的な自信ではなく、「自分なりの信念や正しさを持っている」ということ。

自分の正しさを信じ、それを通そうとすれば、時には親や周りの人間とぶつかってしまうこともあると思います。でも自分の正しさを信じられるからこそ、親元から自立して社会に出ることが出来るし、親や周りの人間の指示を受けなくても自分で自分の生き方を選び決めることが出来る。

また自分の正しさを信じられるからこそ、周りに惑わされることなく自分の信じた道に向かって進むことが出来る。そして自分の正しさを信じられるからこそ、他人の目や他人からの評価も恐れなくなる。そして他人からの評価を恐れないからこそ、心にも余裕が生まれ、その結果周りの状況を冷静に分析し判断したり、周りの人間の気持ちを察してあげたりも出来るようになる。

自分の望む人生を選び取って幸せな人生を送るためには、”自分に自信を持つ”ということがとても重要なんです。そして幼い子供が自信を付けていくためには、親や身近な人間の存在が大きく影響してきます。

と言うのが、子供にとっての親や大人は”絶対的な存在”だからです。まさに親の言葉や態度ひとつで人生に希望を見いだすこともあれば、反対に人生に絶望してしまうこともある。

だからこそ子供が自立するために必要な自信を育んであげるために、僕ら親や大人というのは子供の気持ちや考えを頭ごなしに否定するのではなく、子供なりに考えたことや感じたことを認め、理解し、受け止めてあげなければならない。子供は親や身近な人間から受け入れられることによって、自信を育んでいく。自分の存在を認められることによって、自分を信じる気持ちは養われていくのです。

だから子供が間違ったことをした時は、何が悪かったのか、どこがいけなかったのか、そして今後どのように軌道修正していけばいいのか、相手である子供の成長具合に応じて一緒に考えてやる。「間違ったことをしたんだから、お前はダメだ」ではなく、「間違えても、そこで軌道修正して、そこからまたスタートを切ればいい」という事、そして「いつでも子供の味方であり、どんな時でも応援している」という事を、子供に伝えてあげる。頭ごなしに罰するのではなく、きちんとコミュニケーションを取り、信頼関係を築きながら対話をする。
親から信じてもらうことによって、子供は自分自身の事を信じられるようになります。突き詰めると、教育とは”自信を育んでやること”です。

しかし世の中には、子供の自信を育んでやることとは真反対のことを”教育”や”躾”と称して平気でやっている親がいる。いわゆる”虐待”や”体罰”です。

ただ僕ら親も人間であり、当然ですが完ぺきではありません。子供を相手にしていると、つい感情的になることもやっぱりありますし、思わず手が出てしまう時もあるんじゃないでしょうか。でも子供に対して感情的になってしまうのは、ある意味”子供と真剣に向き合おうとしている証拠”でもあります。だから僕は感情的になることがいけないとは決して思いません。むしろネグレクトのように親から全く関心を持ってもらえないことの方が、子供にとってはよっぽど辛いことだと思います。

ただ僕の言っている”虐待”と言うのは、子供に酷すぎる体罰等を加えたにもかかわらず、その自分の行為を「この子のためだ」と、教育や躾の一環だと称して正当化する人間の事です。

僕らの周りには、「その子の人格形成や社会性を身に付けさせるためにも、体罰は必要だ。口で言っても分からない子には、痛みや恐怖でもって教えなければならない。」と、まるで正義の使者にでもなったつもりで体罰を正当化し行使する人間がいます。こういった人間の心理状態を、これから暴きます。

実はこういう話はあまりしたくなかったのですが、体罰に関するいろんな記事のコメント欄を最近見るようになり、僕の想像以上に体罰肯定派が多いことに驚きました。あまりにも人間心理を理解せず、気軽に体罰を肯定するコメントを発信しているので、正直危機感を感じています。体罰肯定派の人には面白くない内容になるかもしれませんが、僕なりの考えを話していきます。

 

一言で言うと、子供を虐待したり強い罰を与える親や大人というのは、自分に自信の無い人間です。僕はこれまでたくさんの人間を見たり観察したりしてきましたが、自分に自信のある人間というのは、反論されても微動だにしません。むしろ、相手が反論してくるのを楽しんでいるくらいの余裕があります。

そしてこれは子育てに関しても、同じなんです。自信がある人というのは、例えば反抗期で子供が言うことを聞かなくても、「おぉ、やっと一人前に自分の意見を主張できるようになったか(笑)。こいつも成長したな。」と、むしろ喜んでいたりします。

でも自信の無い人というのは、反論されたら焦ります。自分を否定されたように感じ、受け入れることが出来ません。自信が無いゆえに、とにかく自分の事を肯定してほしくてたまらない。だから、力でねじ伏せることの出来る子供は、格好のターゲットとなる。

自信の無い人間というのは心にいつも強い劣等感を抱え、周りの人間から否定されることを常に恐れています。そんな人間が精神的快楽を得られる最大の瞬間、それは”自分が肯定されること”。自分の行動が正しい、自分の考えに賛同してもらえる、そう認めてもらえる瞬間ほど、嬉しいことはありません。でも当然ですが考え方は人それぞれ違うので、自分の思うようには他人は認めてくれない。ごく当たり前の話です。そんな人間にとって自分の子供というのは、自分を肯定し常に自分に従ってくれる”絶対的な支持者”なんですね。

虐待を肯定する親の特徴として挙げられる初期の特徴は、「子供に対して見返りを求める」です。「親である自分があなたのことを思ってこれだけのことをしたのだから、言うことを聞きなさい。感謝して褒め称えなさい。」そうやって子供の気持ちはそっちのけで、親である自分のことを肯定させようとする。

子供は成長と共に、親の想定外の行動を取り始めるようになります。いろんなことに興味を持ち、好き勝手なことをやり始める。当然ですが、良くないことや間違ったこともたくさんやる。
そんな時、親として注意しなければならない場面が出てきます。人に迷惑がかかるようなことは、叱ってでもやめさせないといけない。

そして幼い子供にとって、親というのは絶対的な存在です。親から叱られれば、当然落ち込んで反省します。
とまぁ、ここまではよくある光景であり、特に問題はないのですが、ここで自分に自信の無い親というのは、自分の言葉によって子供が反省する姿を見て快感を覚えるんですね。
「この子は自分の考えより、親である私の意見が正しいと判断した。この子は私の存在を肯定し、私の言うことが正しいのだと認めた。」
自信の無い親にとっては、この「親の言うことを聞く」という当たり前の行動が、精神的な快楽へとつながっていきます。

しかしこの快楽も、長くは続きません。
と言うのが、子供も大きくなってくれば自分なりの考えや意見を持つようになります。でも絶対的な権力者である親には逆らうことが出来ない。だから、仕方なく親の言うことを聞いてるだけ。つまり親の命令に従ってはいても、決して親の考えが正しいと認めているわけではないんだということに、親は気づきます。

そうすると、親である自分が否定されたような気になる。そこで自信の無い親は自分を肯定するために「私はあなたのためを思って、言ってあげているんだ!」そう言い始めます。子供と、そして自分自身を騙すために。

確かに子供のためを思えば、言いたくないことを言わなければならない時も当然あると思います。しかしここで考えなければならないのは、果たしてそれが100%子供のためを思って言った言葉なのか、それとも子供を自分の思い通りに動かそうとしているだけなのか。

しかし仮に後者の「子供を自分の思い通りに動かそうとしているだけ」であったとしても、自分に自信の無い親はそれを認めることが出来ない。認めてしまえば、自分を否定することになるからです。

だから「私は子供に対して決して命令しているわけではない。私が子供を叱っているのはあくまで子供に対する助言であり、子供はその助言を受け入れ肯定して従っているんだ。」と思うことで、自分の心を騙す。自己肯定という快楽を得るために。

自信の無い親は、「あなたのことを思って、言ってあげている。」という言い回しや表現を、とても頻繁に使います。そしてこの言葉を何度も繰り返しているうちに、自分自身が洗脳されていきます。「自分は本気でこの子のためを思って、言ってあげているんだ。」そう本気で思うようになるんですね。

しかしこの快楽も、いつまでも続くわけではありません。と言うのが、同じ快楽を味わい続けると、その快楽に慣れてしまい、今まで味わっていたほどの快楽が味わえなくなってくるからです。これは、例えば学校などで最初は小さなイジメだったのが、だんだんエスカレートしていってしまうのと同じです。またはギャンブルでも、最初は少額の掛け金だったのが、次第により強い刺激を求めて掛け金が大きくなっていくのと同じです。

子供への虐待は、次の段階へと進みます。
より強い自己肯定感を感じるために、子供を支配しようとし始めます。具体的には、子供の行動を自分の支配下に置こうとし、子供の行動を「禁止」するようになります。

子供が自分の意思で何かをやろうとしても、許可を出さない。何かにチャレンジしようとしても、「ダメだ」と禁止する。その行動が客観的に見て何らおかしくないことであっても、ごく一般的な子供の取る行動であっても、自分が許可を出さなければやらせない。例え世間の常識から外れていようと、世間の常識より親である自分のルールを優先させ従わせる。

これは自分に自信の無い親にとっては、強い精神的な快楽へと変わります。「この子は自分の意思や世間の常識よりも、親である私の言葉に従った。つまりこの世で最も正しいのは親である私であると認め、私の意見や考えを尊重し従ったんだ。」そうやって自分が肯定されたと感じ、快楽に浸っていく。

これが繰り返されるとやがて癖になり、他の子たちが当たり前にやっている事であっても自分の気分次第で禁止していくようになります。どんどんエスカレートしていき、次第にそれでは満足できなくなっていく。すると、さらなる快楽を求めるため、次の段階へと進んでいく。

最後は、今の子供の年齢・レベルでは実行することが無理だと思えるようなことを要求し始める。明らかに無理だと思えるような要求をするようになります。

しかしそんなことを要求されても、今の子供には出来ない。すると「あなたのためを思って言っているのに、何で出来ない!何でやろうとしないのか!なぜお前はこんなことも出来ないのか!」そう言って子供を責め、追い詰めていきます。ここまで来るともう、一般的な親子関係とは言えません。これは完全な主従関係を求めた行動です。

ここまで来るともう、歯止めがききません。少しでも言うことを聞かない、少しでも親である自分の命令に反抗する態度を見せれば、容赦はしません。誰が主人なのか、誰が支配者なのかを子供に理解させるために、体罰などを使い、より強い苦痛を味わわせることによって子供を精神的に支配していきます。

そうやって育てられた子供は、どんな大人に成長していくか?親や身近な大人によって自分の人格を全否定されて育った子供の心には、自信が育まれることはありません。自分の中に、自分に対する信頼や自分なりの正しさを持つことが出来ないため、自分で自分の人生を選び取ることが出来ない。自分の人生を自分で決めるという当たり前の事さえ出来なくなる。昔の僕が、まさにそうです。

でも僕は運よくそれに気づき、負の連鎖から抜け出すことが出来た。父親の精神的支配から抜け出すことが出来ました。そのお陰で、僕は今までの自分の生き方を反面教師とし、自分の子供には真反対の”自信を育む教育”を施してあげることが出来ています。

実は僕の父親も、僕以上に自分の両親から厳しく育てられてきたことを、大人になってから聞きました。そして自分がされてきたことと同じような教育を、子供である僕にもしていた。危ういところで、僕も負の連鎖を引き継いでしまうところでした。

 

という事で、僕なりの”虐待”や”体罰”について話させてもらいましたが、僕は100%体罰を否定しているわけではありません。例えば大きな怪我につながることや、または取り返しのつかないような迷惑を他人にかけてしまうような可能性がある場合は、殴ってでも子供の行動を止めなければならない時もあるかもしれません。

でもそういった緊急の場合でない限り、どんな理由があろうと僕は体罰を肯定しません。体罰は、教育ではありません。体罰や虐待というのは恐怖による精神的支配であり、相手の存在を全否定してこちらの価値観や考えを全面的に押し付ける行為。体罰では、子供の自信や考える力を育んでやることは出来ません。例え体罰をする側の言い分が正しくとも、子供の自信や考える力を育んでやることが出来なければ、それはただの自己満足であり、体罰をする側が精神的快楽を味わうためだけの行為でしかないのです。

僕はこれまで、子供に対して体罰や暴力を使ったことも無ければ、精神的にプレッシャーをかけたことも基本的にありません。では、それによって子供が僕の言うことを聞かないかと言えば、そんなことはありません。

僕は常に子供の考えを認め、子供の意思を尊重します。そして子供も同じように、僕の考えを認め、聞き入れ、僕の意見を参考にしようとしてくれます。子供が言うことを聞かないからと言って力でねじ伏せようとするから、むしろ子育てが上手くいかなくなるんです。

子供には子供なりの考えがあります。そして子供というのは、向上しよう・成長していこうという意思が、元々備わっているもの。上に向かって伸びていこうとする力を、僕ら大人の価値観や都合で抑えつけてしまうから、子育ても上手くいかなくなるのです。

子供はいつか、僕ら親や大人の手を離れて独り立ちしていきます。だから独り立ちの日のために、一日も早く自信を付けさせ、自分の足で歩く力を身に付けさせてあげなければならない。

体罰等によって子供を精神的に支配すればするほど、子供は親に対する依存心を強めていきます。自分の意思ではなく、親の目ばかりを気にし、親の意に沿うような生き方しか出来なくなっていきます。

教育の目的とは、「自分の人生で何かが起こっても、自分の頭で考え、自分の意思で判断し、そして自分の責任において決断し行動に移せる力を身に付けさせること」です。間違っても、体罰等によって子供の依存心を強めてしまうようなことはしてはならないのです。

親の価値観や常識・希望・都合などではなく、純粋に子供の人間的自立を考えるなら、体罰や虐待といった行為がプラスになるどころかマイナスにしかならないことに、きっと気づくはずです。


メッセージ

  1. 匿名 より:

    お久しぶりです、あーちゃんです♪

    毎日数百通のメールが届きます。このごろは仕事が変わったこともあり、小遣い稼ぎのアンケートもスルーして大半のメールを削除していました。たまたまごみ箱に入っていた(ごめんなさい)仁さんのメルマガを見つけて拝読しました。

    仁さん、その通りだと思います。

    親の体罰というのは一生拭いえない心の傷ですね。

    私も幼いころ、一年生であったかな?宿題をしているときに母親がその時自分だけお菓子をほおばりながら私が宿題を勉強しているという構図がありました。

    私は母が目の前にいて緊張していたのに加えて、人が一所懸命勉強しているのに自分(母)は好きなお菓子をほおばっているという違和感もありました(クスクス、もう60年近く前のことで、その母は他界していませんが笑)

    それで気が散ったと言いますか、ちゃんと答えが書けなかったと言いますか、そのとき、お菓子をほおばりながら母は私の頭を殴ったのですね。「こんなこともわからんのか!」と

    私の母(親)への不信感はこのときに芽生えたのかな?

    それから成長して、ささいなことで母は「殴ったろか」とかと言って威圧することもありました。私は殴られたくないのでいい子を装いました。

    その前に姉が散々殴られて悲鳴を上げていたこともありました。

    私は心の中で「おかあさん、おねえちゃん殴るのはやめて!!」と勇気があれば姉をかばいに行きたいけれどもまだ小学生だった私にはできなかったというか、その姉を散々懲らしめたあとにわたしに言い放った母の言葉は{お前も言うこと聞かんかったらこんな目に遭うぞ」

    と・

    もうこれ以上書きません。

    いろいろな心の傷を背負って、今日までまいりましたが。

    読んでいただいてありがとうね♪