感謝・お礼の意味をすっかり忘れてしまった日本の大人たちへ…

仁の本音

この日本って「感謝をしろ」という同調圧力がとても強い国だと、感じたことはありませんか?

 

何かしてもらったら感謝の気持ちを表さないと、人としておかしい。

親切なことをしてもらったり迷惑をかけてしまったら、何か品物を買ってお礼に行くのが大人としての常識。

贈り物をしてもらったら、感謝の気持ちとして同程度のものを送り返さないと非常識。

 

この日本という国は、何かと感謝の気持ちを強要する。

はっきり言って感謝が単なる社交辞令、人間関係の摩擦を避けるための道具となってしまっている。

 

また僕の周りには、思ってもいないのに「ありがとう」を連呼する人もいます。

その人曰く、「ありがとう」を言葉に出せば出すほど自分の人生が好転するそうです。

言いたいことは分かりますし、それを否定するつもりもありませんが、上っ面の言葉を繰り返せば信用を失うだけ。

 

僕はこの「感謝をしろ」という同調圧力が、気持ち悪くて仕方ない。

もちろん僕は感謝することを否定しているわけでは無いし、「感謝をする」というのは僕の人生の中でも最も重要なことの1つだ。

ただ、感謝を強要する空気が、気持ち悪くて仕方ない。

感謝というのは強制されるものではなく、その人間の心に自然とわき起こる感情。

「感謝をするべき」だなんて言われる筋合いはない。

 

ということで、僕なりの感謝というものについての解釈を話させてもらいます。

 

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 生んでもらって感謝しろ?

感謝の圧力の代表的なものとして、親に「生んでもらったことに感謝しろ」「育ててもらったことに感謝しろ」というのがあります。

僕自身子供の頃や若い頃は、そうだと思っていました。

 

しかし実際に子供が生まれ親の立場になって、気づいたことがあります。

それは、僕自身が

「子供が欲しいから子作りをした」ということです。

 

僕は決して子供のためを思って子作りをしたわけではない。

自分が「子供が欲しい」と思ったから、子作りをした。

つまり、子供を作ったのは僕ら親の勝手だということ。

だから、自分の子供から「生んでくれてありがとう」と言われても、かなり違和感がある。

だって、僕が「子供が欲しい」と思ったから子作りをしただけであって、君たち子供のために子作りをしたわけではない。

 

子育てにしても、そう。

子育てをしたいから、やってるだけ。

 

確かに子育ては、正直大変です。

まさに人生をかけた大仕事であり、時には命を懸けねばならないレベルの時だってある。

でも、それを覚悟の上で子供を産んだ。

命を懸けて育てることを前提に、子作りをしたわけです。

 

とは言っても、中には「できちゃった婚」もあるだろう。

ぶっちゃけて言うと、実はウチもできちゃった婚だ。

でもそんなことは関係ない。

生むと決めた時点、生まれた時点で、できちゃった婚であろうとなかろうと同じだ。

その子を育てる覚悟を決めたはず。

だから子供を産み育てることは全て親の都合であり、子供から感謝されることではない。

 

ここで誤解してほしくないのですが、僕は何も「親への感謝」を否定しているわけではありません。

僕自身、自分の親をとても尊敬していますし、親には「あなたたちの子供として生まれてきて、良かった」「僕の親になってくれて、本当にありがとう」といった感謝の言葉は、日常会話レベルで言っています。

ただ、どれだけ大変だったとしても、子供を産み育てるのはあくまで僕ら親の希望であり、そのことを子供に感謝してもらうというのは僕個人としてはちょっと違うのではないかと思っています。

 

 

 感謝の意味

「では、感謝とは一体何なんだろう?」

今回の記事を書くにあったって、僕なりに考えてみました。

 

それで、これはあくまで僕なりの考えなのですが、感謝を図る定義として

「無償の愛を、自分以外の人間に注げるか?」

「見返りを求めない親切を、他人にしてあげることが出来るか?」

ということが、心の中に浮かびました。

 

実際僕はここまで生きてくる中で、本当に多くの人に支えられて生きてきました。

生まれた時には親や身近な大人、子供の頃にもたくさんの大人や友人・先輩や後輩、社会人になってからも上司や同僚・部下・仲間、本当にたくさんの人に助けられながら生きてきました。

今では子供の存在も、僕の中ではとても大きな支えとなっています。

僕一人では、とてもここまで生きてくることは出来なかった。

 

とは言っても、これまで辛いこと、苦しいこと、理不尽なことや納得のいかないこともたくさんあった。

時には人とぶつかったり、喧嘩もした。

人に騙されたり、嵌(は)められたこともあった。

人を恨んだり、憎んだりしたこともあった。

本当に、いろんなことがあった。

 

でも、僕一人ではここまで歩いてくることは決して出来なかった。

共に生きる人たちがいたからこそ、僕は今ここにいる。

見えないところでみんなに支えられてきたからこそ、今の僕がある。

 

だからよく考えれば、人に対して親切にするのは、実は当然のこと。

これまで助けられてきたんだから、僕らは親切をしているのではなく単に恩返しをしているだけ。

自分が受けたものを、今度は人に返す。

人として、ごく当然のこと。

 

だからそこには、見返りの心が存在するはずは無い。

人として当然のことをしているだけ。

受けた恩を返すのは、人として自然なこと。

自分のした親切をアピールするなど、あり得ない。

 

もしあなたに対し恩着せがましく感謝の言葉を求める人がいたなら、その人間は感謝の気持ちが絶対的に足りない。

いや、感謝というものがどういうものなのか、全く分かっていないかもしれない。

見返りを求めたその時点で、単にその相手があなたを利用しようとしていることがバレバレだ。

自分のしてあげたことに対して賞賛の言葉を浴びて自己満足に浸りたいか、または物など具体的な何かが欲しくてやっている、といったとこだろう。

または自分に強制的に感謝させることによって、あなたを都合良く操ろうとしているのかもしれない。

まさに、感謝とは程遠い所にいる人たちだ。

感謝とは、その人の心に自然とわき起こってくるものであり、強制されるものでは決してない。

 

 

ということで、僕なりの「感謝」についての考えを話させてもらいました。

もちろん僕のこの考えが正解ということではありません。

人それぞれ考えや解釈があるでしょうし、あなたにはあなたなりの考えがあると思います。

だから「こういう考えもあるんだな」程度に受け止めて下さい。

人それぞれ意見が違うのは、良いことです。

 

上っ面だけの感謝の言葉や物などではなく、心からの感謝の心で、共に生きていきたいものですね。

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