雑草はどれだけ厳しい状況であっても、逞しく生き抜いていく。そこが例えアスファルトに舗装された場所であろうと、まるで栄養も水分も無いような土地であっても芽を出し成長していく。またどれだけ踏みつけられようとも、驚くべき生命力で何度でも復活する。まさに雑草とは、どんな不遇にも決して諦めることなく不屈の努力を続ける姿そのものであり、そんな生き方を世間では「雑草魂」と呼びます。
メンタルの弱かった若かりし頃の僕は、まさに雑草魂とは真反対とも言える生き方をしていました。そして、倒れても何度でも困難に立ち向かう雑草のような強さを持った人に、強い憧れを抱いていました。
でも僕自身、ある程度年齢を重ね、多くの人を観察していくうちに、雑草魂とは「踏まれても踏まれても立ち上がること」ではないということに気づきました。いや、「踏まれても踏まれても立ち上がること」ももちろん間違いではないのです。ですが、もし今のあなた自身がそういう認識で努力し続けているのなら、場合によっては踏みつぶされて終わってしまう危険があります。
雑草魂とは、単なる根性論ではありません。ただ単に上に向かって伸び続けることではありません。雑草のように強く生きるには、「したたかさ」が必要なのです。実は雑草という植物は、雑草ならではの戦略を持っているからこそ生き残ることが出来ているのです。
僕自身のこれまでの人生を踏まえながら「雑草魂」の本当の意味を、これから説明していきます。
みんなが勘違いしている「雑草魂」
ところで雑草というと、強いイメージがありますよね。アスファルトの隙間からでも芽を出し、靴やタイヤに何度踏まれようとも伸びていく。除草剤をいくら撒いても、何度でも復活してくる。ものすごい生命力ですよね。でも意外にも、実は雑草というのは植物の中では弱い存在なんです。
なぜ雑草はアスファルトや道路の端といった過酷な場所に生えているのか?それは他の植物との生存競争に勝てないからです。いわゆる栄養たっぷりの豊かな土地にはたくさんの植物が密集し、そこでは過酷な生存競争が繰り広げられ、弱い植物は淘汰されていきます。そんな生存競争をかけた過酷な環境では、多くの雑草は弱すぎて生きていけないのです。
ではどんな場所だったら、弱い植物でも生きていけるのか?それは他の植物が生えていない場所、つまりアスファルトの隙間や道路の端といった「他の植物が十分に成長していけないような劣悪な環境」といった、ライバルの居ない場所。なぜ雑草がアスファルトの隅っこで繁殖するのかというと、そういった場所にはライバルになる植物が居ないからです。弱いがゆえに、他の植物がやって来ないようなニッチな場所を選んで繁殖しているのです。
また雑草は「踏まれても踏まれても立ち上がる」と思われていますが、実はそんなことはありません。例えば頻繁に何度も踏まれるような環境であれば、雑草は上に伸びるのではなく横に伸びていったり、または踏まれても折れないように茎を短くしたり、根をより深く下に伸ばしたりなど、その環境に適応した成長をするように変化していくのです。
つまり雑草が他の植物より優れている点は、その生命力などではなく「環境に合わせて変化できる対応力」なのです。どんな困難にも折れない強さではなく、竹や柳といった「力や圧力に対して、しなやかに受け流す」柔軟さ。柔道で言う所の「柔よく剛を制す」こそが雑草魂の真骨頂と言えるのです。
実は僕自身、幼少期より多くの大人たちから頭を押さえつけられながら生きてきました。僕の意見や主張は聞き入れられず、自分の行動や生き方や感じ方さえも全て周りの大人が敷いたレールの通りに歩かされてきました。その結果僕は、自分を見失いました。自信を全く失い、自分の存在そのものを肯定することも全く出来なくなりました。
そして僕は他人と接触することが怖くなり、次第に対人恐怖症になっていきました。そうして人とコミュニケーションを取ることから逃げた僕は、コミュニケーション能力を全く伸ばせなくなっていきました。
いつもビクビクして周りの機嫌ばかりを過剰に気にし、人とも上手く話せない。でも他人と上手くコミュニケーションを取れないその代わりに、他人の感情や思考を読む能力が伸びました。言葉を交わさなくても、相手を観察しているだけで相手の求めているものが何となく分かるようになったのです。
本当は周りの人間と互いにコミュニケーションを取って良好な人間関係を築くことが良いのでしょうが、それが出来なかった当時の僕は、自分独自のやり方で他人と良好な関係を築く方法を生み出した。つまり上に向かって真っすぐ伸びることの出来なかった僕は、上にではなく横や斜めに自分の能力を伸ばすことによって、したたかに生きてきたのです。
ハッキリ言って、障害だらけなのが僕らの人生です。何の困難も苦労も無く、常にベストな状態でまっすぐに歩き続けられる人生なんてあり得ません。もし目の前に壁が立ちふさがり、その壁を突き破って進むことが出来ないのなら、壁に梯子をかけて乗り越えてしまえばいいのです。または別ルートで壁を迂回して進んでしまえばいいのです。
雑草魂とは「やられてもやられても立ち上がるぞ」といった単なる根性論ではなく、「あっちがダメなら、じゃあこっちから行ってやる」といったように、執念深く頭を使ってしたたかに生きることを指すのです。
ふと道端に目を向けてみると、歪に曲がったり傾いたりしながらも、そっと花をつける植物の姿を目にすることがあります。そんな植物たちは、あたかも「ただ真っすぐ上に伸びることだけが成長とは限らないんだよ。」と、僕らに教えてくれているように感じませんか?「自分の置かれている環境をただ嘆くのではなく、頭を使ってしたたかにしぶとく生きようぜ!」と語り掛けてくれているように、僕は思えてなりません。
人生の勝利者
ところであなたは「オオバコ」という雑草を知っていますか?
↑こんなヤツです。
オオバコは、道端や学校のグラウンドといった、よく踏まれるところに生えていますよね。まるで踏まれやすいところを選んで生えているかのように。実はこのオオバコ、人間や車に踏まれた時、自分の種を人間の靴や車のタイヤにくっつけて種を運ぶことによって分布を広げていくのです。
本来植物にとって「踏まれる」ことは成長する上での大きな障害となるはず。オオバコの種は靴やタイヤにくっつきやすいように粘着物質に包まれているのですが、この粘着物質は元々は乾燥などから種子を保護するためのものであると考えられています。しかしオオバコはこの粘着物質を活用し、「踏まれる」という苦境をむしろ利用して見事に繁殖に成功しているのです。
そうなるとオオバコにとって「踏まれる」という行為は、耐え忍ぶべき逆境などではなく、むしろ踏まれなければ困る。もはや「踏んで欲しい」と願うマゾ野郎なわけです。まさにオオバコは、自らに降りかかる逆境をプラスに変えて成功した勝利者なのです。
ということで、あなたにとっておそらくまるで興味のない植物の話を長々とさせていただきましたが(苦笑)、最初の方でも言った通り、雑草とは本来は他の植物との生存競争に勝つ力を持たない弱い存在です。にもかかわらず、雑草は独自の戦略を駆使してしたたかに繁殖し続け、見事に勝利を手にしているのです。
これこそが、本当の「雑草魂」です。
ただ単に苦しみを耐え忍ぶのではなく、逆境に対して独自の戦略としたたかさで執念深く乗り越えていく。雑草の生き様は、まさに僕らにビジネスや人生を生き抜いていくための本質を教えてくれています。
最後に勝つのは強い者ではなく、状況に合わせて柔軟に変化できる者であり、そしてどんな時でも決して希望を失わない者だと、僕は自身の経験上そう確信しています。
そして、どんな時でも決して「根を上げない」こと。この言葉、本当は「音を上げない」が正しいのですが、あえて僕はこの「根を上げない」を使っています。
どんなに強い植物であっても、根を上げてしまえば枯れてしまいます。土から根を引っ張り出されて上に上げられてしまえば、そこで枯れて終わりです。
だからどんな状況に置かれようとも、根は必ず下に張り続けなければならない。例え枝や茎や葉が枯れて無くなっても、根っこさえ残っていれば植物は必ず復活できます。僕自身もこれまで人生を何度も投げ出そうとしましたが、根を上げることはしませんでした。だからこそ、時間はかかりましたが30代後半に差し掛かってから人生を逆転させるきっかけを掴むことも出来たのです。
ということで、僕なりの「雑草魂」について話をさせてもらいました。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。あなたの人生にとって何か少しでもご参考になれる部分があったなら、嬉しく思います。
では。
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