道徳とは、一体何だろう?
あなたは「道徳とは何か?」と聞かれると、何と答える?
辞書などで調べてみると、
「人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くもの。」とある。
つまり特定の社会・集団において、人として守るべき正しい道のことを「道徳」と呼ぶ。ということは、道徳を守る人はいつも正しく、優れた人格者であるということになる。
…果たしてそうだろうか?
そもそも僕ら日本人の中にある道徳心とは、本当に全て正しいのだろうか?
道徳や倫理というのは、いわば「特定の社会・集団において、その中にいる人間たちにとって過ごしやすくするための共通のルール」。しかし見方を変えると、実は道徳とは「その社会・集団の統治者が、所属する人間たちを都合よく動かすための統治システム」。
この日本社会にある正義や道徳・倫理。僕はその全てを否定するつもりは無い。正しいと思えることも、当然だがある。
でも、その正しいと言われる基準を決めたのは誰か?
道徳の基準を作ったのは、誰か?
この道徳、もし意図的に手を加えられているとしたら、あなたはどう思う?
人々の心を操る”道徳的支配ツール”
そもそも日本人の道徳心というのは、元々中国から伝わったもの。あなたは儒教(じゅきょう)というものを知っているだろうか?もしご存じないなら、では孔子(こうし)という人物ならどうだろう?
孔子は古代中国における教育者であり、または思想家でもあり政治家でもある。
孔子は「礼(国の儀式・神事から人間関係全般に至るまでの規範)」を整え体系化した人で、その教えは儒教として日本へも伝わり、日本の道徳の元となった。
よく日本では「年上を敬え」と言うが、こういった道徳的考えも儒教の教えからきている。いわゆる目上・目下、先輩・後輩といった上下関係も、元々は儒教が元となっていると考えてもいいだろう。
孔子というと「”礼儀作法”について説いた人」として有名だが、実は孔子が最も大事だと強調したのは「仁 (相手を思いやる心)」。孔子(儒教)が説いた五つの徳目として「仁・義・礼・智・信」というものがあるが、見た通り”仁”がまず最初に来る徳目であり、孔子は「仁こそが最も大切だ」と説いている。
生前の孔子は政治にも積極的に参加し、徳治主義(とくちしゅぎ:徳のあるものが統治者となり、その徳を持って国や人民を治めなければならない)を主張し続けた。つまり君主(上の人間)への礼儀についても説いたが、孔子が強調して説き続けたのが、上に立つ君主のあるべき姿。
『君主とは常に民衆のことを思い、公正な政治をすると同時に自らも厳しく律しなければならない。そして君主自らが礼を重んじ、臣下の意見をよく聞く耳を持ち、いかなる時も賢明な判断をしなければならない。』
つまり孔子の説いた教えというのは、単に目上の人間に対する礼儀だけではなく、「年長者や上に立つ人間というのは、下の人間の見本として、自ら手本とならなければならない」ということも同時に説いている。
しかしこの孔子の徳治主義というのは、支配者や上に立つ人間からすれば、非常に都合が悪い。自分に厳しく、なおかつ下の人間を重んじろという教え。上の人間からすれば、何もおいしくない。
だからこの日本に伝わってきた儒教を、時の権力者たちは自分たちに都合よく加工した。
「上から下の人間に対する礼儀」はスルーし、「下の人間が上の人間に対してすべき礼儀」のみを重んじる。
つまり、自分たち権力者に歯向かわず、従順で言いなりになる人間を作り出すために、儒教の礼の教えの一部分を上手く利用した。
例えば戦国時代などでは、天皇・将軍・殿様・主といった権力者である自分に、皆を従わせないといけない。また戦時中であれば、日本国民を権力者である自分たちに従わせないといけない。
そのためには、国や権力者・上官などに歯向かわせないように仕向けなければならない。自分たち権力者に歯向かってはいけない空気を、作り出す必要がある。
そのために儒教の”礼”の精神を利用して、「自分より上(上官・年長者)からの命令には従うべきだ」という道徳的規範を意図的に植え付けた。
「上に逆らってはいけない」「上に逆らうのは失礼にあたる」といった道徳的規範は、立場が上の人間にとってはこれほど都合の良いものはない。支配する側の人間からしてみれば、これほど便利なツールはない。
そしてこの「道徳的支配ツール」は、今もこの日本ではまだまだ多くの場で利用され続けている。
会社でも、そう。
学校でも、そう。
クラブ活動でも、そう。
上司や教師・先輩に対し自分の意見を素直に言いにくい空気が、未だに蔓延し続けている。
以前僕の知り合いが教えてくれた話で、かの有名な政治家「宮澤喜一」のあるエピソードを話してくれたことがある。
第二次世界大戦でアメリカと日本が戦う前のことだが、宮澤喜一が学生時代にアメリカへ行くことがあり、その時アメリカの学生たちと議論(日米学生会議)をしたそうだ。そしてアメリカ人の発する言葉に、宮澤喜一はものすごい衝撃を受けた。
一体どんな言葉に衝撃を受けたのかというと、議論の中でアメリカ人たちが、自分の国であるアメリカのことを平気で批判し始めたのだ。
当時の戦時中の日本人の感覚からすれば、自国である日本のことを批判したり悪く言ったりするなんてあり得ない。そんなことをすれば非国民だと罵られ、場合によっては逮捕される。口が裂けても自国の悪口なんて、言えるわけがない。
でもアメリカ人たちは、平気で自分たちの国のことを批判し始めた。
アメリカの、こういうとこが良くない。
アメリカの、こういうとこは早急に改善していかなければならない。
敵国の、こういう部分は見習わないといけない。
平気で自分の国のことを批判し、敵国を褒める。
それを聞いて宮澤喜一は、「アメリカとは、なんて国なんだ。我が日本はアメリカには絶対に勝てない。」そう感じたそうだ。
なぜ年上に逆らったり、年上に意見を主張してはいけない?
自分が年下というだけで、なぜ遠慮しないといけない?
立場が下というだけで、なぜ正直な意見を主張できない?
年齢が少ないというだけで、なぜ自分の貴重な意見を潰されてしまうのか?
それはこの日本社会全体に、おかしな道徳心や倫理観が蔓延しているから。「年下はへりくだり、年上や年長者を無条件に敬わないといけない」という、間違った道徳心を刷り込まれているから。その方が年上や年長者、または立場が上の人間や支配者層の人間にとっては都合がいいから、結局誰も変えようとしない。例え間違っていると知っていても、自分の立場を守るためにはスルーするのが一番。
大切なのは、年上を敬うことではなく「人間を敬うこと」だと思うが、あなたはどう思う?
僕は、相手が年上だろうと年下であろうと、例え相手が幼い子供であろうと、常に同じ目線で接する。子供であっても、その意見を尊重し、真剣に聞く。
相手を尊敬するのに、相手の年齢や立場や社会的地位は関係あるのだろうか?僕は相手の年齢や立場を尊敬するのではなく、相手の人間性を尊敬する。
「人に迷惑をかけるな」という道徳的考えに対しても、僕はやはり大いに疑問だ。
もちろん人に迷惑をかけないに越したことは無い。でも、誰にも迷惑をかけずに生きられる人なんて、存在しない。
僕らは生まれた時は、親や身近な大人の助けが無いと、生きていくことすら出来ない。成人して働くようになるまで、たくさんの人たちに助けられながら、数えきれないほど迷惑をかけることとなる。働くようになってからも、やっぱり自分の力だけではやっていけないことはたくさん出てくる。たくさん失敗し、そして周りの人にフォローしてもらいながら誰もが一人前になっていく。
だから「人に迷惑をかける=悪いこと」ではない。
さっきも言ったが、誰にも迷惑をかけずに生きられる人はいない。だから自分が助けてもらった分、自分が迷惑をかけてしまった分、今度は自分が周りの人たちを助けてあげればいい。自分が誰かから育ててもらったのなら、今度は自分が誰かを助け育ててあげればいい。自分が受けた恩を、今度は他の誰かに返してあげる。
もし「人に迷惑をかける=悪」であるなら、僕はもう誰とも関われなくなってしまう。一歩も家の外に出られなくなってしまう。
ここまで話を聞いて、あなたはどう思っただろう?
前回の記事では「常識」について話したが、今回の「道徳」も同じだ。僕らは道徳という名の洗脳システムに操られ、思考や行動をコントロールされてしまっている。
もちろん全ての道徳が間違っているとは思わない。素晴らしい価値観や考え方・習慣も、この日本にはたくさんある。
ただ、みんなが信じる道徳心や倫理感を無条件に受け入れることほど、危険なことはない。道徳とは、法律のように外部から人間を規制するものではなく、内面からその人間を規制するもの。法律のような強制力は無いが、場合によっては僕らの心を支配してしまうほどの力を持つ。
つまり、人を洗脳するためには最強のツールだということ。
道徳心を上手く利用すれば、人々の思想や価値観も自分にとって都合の良い方向に誘導することも出来る。そして多くの人の思想・価値観を自分の望む方向に誘導すれば、数による同調圧力で個人の自由な発想や価値観なども抹殺することも出来る。自分にとって都合の悪い意見や考えを、ひねり潰すことも出来る。
ところであなたの周りに、道徳心の強い人物はいないだろうか?もしいるなら、その人間の言動を注意深く観察してほしい。全ての人がそうとは言わないが、道徳心の強い人というのは、自分の中にある道徳の規範に反する人間に対し、とても批判的な目を向ける。反道徳的だと思う相手に対し、とても攻撃的になる。
つまり道徳というものは、他者を攻撃するための強力な武器になり得る。
心の豊かさや寛容さを育むはずの道徳が、使い方によっては他人を排除するための手段として大きな力を発揮させることも出来るということ。
実はこれ、子供たちのケンカを見ていたら、よく分かる。
例えばある男の子が一人の女の子を泣かせたとしよう。すると泣かされた女の子の女友達が、泣かせた男の子の行為を「人として間違っている」と責め始める。
そうすると大抵、そのケンカと関係の無い周りの女の子たちまでも影響を受けて同調し始め(洗脳され)、最後は「間違ったことをしたんだから、謝れ!」と、女の子たちの大合唱が始まる。
そうなるともう、この男の子は何も言えなくなる。もし仮にこの男の子が悪くないとしても、男の子の声はかき消され、誰にも届かない。そしてこの男の子は、子供のコミュニティから排除される。
そしてこういったことは、形は違えど大人の世界でも日常的に発生している。いや、大人がやるからこそ、それを子供が見て真似をしているといった方が正しいか。
ということで、ここまで道徳による洗脳について話してきたが、では実際に洗脳を受けないようにするためにはどうすればいか?ということを最後に話そうと思う。
まず前提として、道徳というものはそもそも感覚的なものであり、その感覚は経験によってしか得られない。
例えば「自分がしてもらって嬉しいことを、他人にもしてあげる」という道徳的考え方は、実際に自分が他人から何かをしてもらって「嬉しい」と感じる経験をしなければ、理解できない。
例えば「人を殺してはいけない」という道徳的考え方も、人生のどこかで命の大切さにふれる経験をしなければ、理解することは出来ない。
道徳とは、自分の経験によって気づくもの・感じるもの。感覚的に理解するものであり、なかなか言葉で教えられるものではない。
あなたの中にある道徳心や倫理観、それはあなた自身の経験によって得たものだろうか?
それとも誰かから「道徳とは、こういうものだ」と単に教えられただけのものであったり、または世間一般に言われている道徳心・倫理観を鵜呑みにしているだけだったりしないだろうか?
もし前者であるなら、あなたが何らかの洗脳にかかっている確率は、極めて低い。
だが後者であるなら、非常に危険だ。
もしあなたが後者であるなら、もしかしてあなたの行う道徳的行動は、「周りから認めてもらうため」であったり、「周りから批判されないため」にやっているのではないだろうか?
人に認めてもらうためであったり、褒めてもらうためにする親切は、道徳ではない。周りの目を気にすることなく、人として正しいと思う行いを自分の意思でするのが道徳だ。
周りから何を言われようと、どんな目で見られようと、関係ない。人として正しいと自分が信じることを、自分の頭で考え、自分の意思でやる。
そうすれば、きっとあなたは洗脳にかかることは無いだろう。
周りの声や同調圧力に従うな。
自分の感性・感覚・直観といった”心の声”を、もっと信じろ。
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