かつての僕は、ものすごく被害者意識の強い人間でした。みんなが僕を心のどこかでバカにしている、みんなが僕を陥れ利用しようと企んでいる、そんな被害妄想の塊みたいな人間でした。周りの人間のことを信用できないから、誰にも心を開けないし、そんなんだから人間関係も当然上手くいかない。この世界に僕の居場所はどこにもない。かと言って、死を選ぶことも出来ない。
僕はいつも孤独でした…
と、まぁ重たい出だしで始まった今回の話のテーマは”感謝”です。感謝というと、「人生が上手くいかないのは感謝の気持ちが足りないからだ」なんてよく言いますよね。確かにその通りだと思います。
「人に感謝する」と言うのは、「その相手のことを愛すること」だと僕は思っています。相手のことが嫌いで受け入れられなければ、相手に対し素直な気持ちで向き合うことも出来ないし、心の底から真に感謝することも出来ない。逆に相手の存在を受け入れられるからこそ、相手のしてくれた好意に対し自然と感謝の念も生まれてくるのだと思います。
ただ、今回は「感謝すること」だけでなく「感謝されるためにはどうすればいいか?」ということについても話していこうと思います。
僕に足りなかったもの
かつての僕は人間関係に悩みを抱え、子供の頃から対人恐怖症の症状が表れていました。大人になってからも対人関係が全くと言っていいほど上手くいかず、目の前に立ちはだかるたくさんの問題を見て見ぬふりをしながら生きてきました。
でも、心のどこかでは「このままではいけない…」そんな思いがありました。
「俺はこんなにも人間関係で頭を悩ませているのに、他のみんなは俺のように悩んでいるようには見えない。一体何が違うんだ?俺には一体何が足りないんだ?」
ある時から本気で人生を変えたいと思うようになった僕は、自分に足りないものが何なのか、真剣に考えるようになりました。そこで、ネットや書籍・リアルの人間などあらゆるものを見て、社会的に成功を収め続けている人や、周りと良い関係を築き喜びに満ち溢れた人生を送る人たち、またはイキイキと充実した人生を送っている人たちを見つけ出しては観察し、僕と彼ら・彼女らは一体何が違うのか?というのを自分なりに考えてみました。
その結果、僕に足りないものは「感謝の気持ち」であることに気づきました。当時の僕は自分の境遇に対していつも不平不満ばかりを言って、実は未熟である自分がたくさんの人から支えられている・助けてもらっていることに全く気づけていなかったんですね。正直言って、感謝という概念すら持ち合わせていませんでした。
僕が生まれた時から大人になるまで生かし育ててくれた両親やきょうだい、出来損ないの役立たずだった僕を雇ってくれた会社や支えてくれた上司・同僚・後輩…僕が今こうして一人前の人間として存在できているのは、決して当たり前のことなんかじゃないんですね。僕は自分一人の力で生きてきたんじゃない、たくさんの人たちの助けがあったからこそ今こうして生き永らえている、そのことにようやく気付くことが出来るようになりました。
そして僕が憧れるような、社会的に成功を収め続けている人や充実した人生を送っている人を観察し続けた結果、彼ら・彼女らは周囲に対する感謝の気持ちを持っていると同時に、周りの人たちから感謝される側の人間でもあるという事が見えてきました。
いつしか僕も「周りの人たちから感謝され、みんなから必要とされる人間になりたい」、そう思うようになっていきました。
それからは、「どうすれば人の助けになれるだろうか?」というのを自分なりに考えるようになり、それを行動に移すようになっていったのですが、正直上手くいきませんでした。人のために何かをしてあげて、その相手が喜んでくれれば当然嬉しいんですが、中には僕の気配りや僕のしてあげたことに全く気付かない人、またはむしろ迷惑そうな顔をされてしまうこともある。良かれと思ってやったことが否定されたり、むしろ相手にとって負担になってしまうこともある。
人から感謝されるどころか、その時の相手の反応にばかり振り回され、その結果ますます僕は人間関係が嫌になっていきました。他人と同じ空間にいるだけで強いストレスを感じて耐えられない…これまで以上に僕は人間が苦手になりました。
結局、当時の僕は単に他人から評価されたかっただけだったんですね。人から感謝されることによって、その人間から認めてもらいたかっただけ。僕は感謝の意味を全く理解していなかった。自分の評価を上げるためだけに周りの人間を利用し、相手のことを本気で考えてなどいなかった。
感謝の本当の意味
少し昔の話になるんですが、僕が以前いた会社には”Yさん”という男性の先輩がいました。Yさんは独身で、実家にいる年老いた父親と二人暮らしをしていたのですが、そのお父さんがとても個性的で面白い人でした。若い頃からまさに波乱万丈の人生を歩んできており、体も逞しく、頭もキレる。知識も豊富で、いろんな面白いことを知っている。とても魅力的なお父さんでした。
しかし歳と共に体も弱っていき、病気も抱え、最後は自力で歩くこともほぼ出来なくなり、何度も救急車のお世話になるという状態になってしまいました。デイケアやデイサービスなども活用しながら何とか頑張っていたのですが、そんな状態のお父さんを自宅で介護しながら会社で働くYさんの苦労は、まさに想像を絶するものでした。
朝は介護の人が来るギリギリまでお父さんの面倒を見て、仕事が終われば急いで家に直行。仕事中も介護関係の人から「お父さんの体調がおかしい」といった電話が頻繁にかかってきて、対応を迫られる。場合によっては、仕事を抜けて自宅や病院に駆けつけることもしばしば。いつもYさんはいっぱいいっぱいで、見ていて「お父さんじゃなくてYさんの方が先に倒れるんじゃないか?」と、周りは常に心配していました。
でも不思議なことに、Yさんは全然しんどそうな雰囲気を見せないんですね。確かに愚痴や弱音やお父さんへの不満はしょっちゅう口にしていたし、実際に体はかなりしんどかったはずです。でも口では父親の介護は大変だ、本当に面倒だと言いながらも、決してお父さんを施設に入れることはせず、自宅で看続けることをYさんは選びました。
実はYさん、お父さんのことをものすごく尊敬していたんだと思います。このYさん自身もとても物知りで頭の回転もすごく速い人なんですが、そのYさんをはるかに凌ぐ知識・経験と頭のキレの良さを併せ持っていたお父さん。どんな困難にぶつかっても人生で一度も弱音を吐いたこともなく、どんな時も絶対にブレない信念。Yさんが人生に迷った時は、いつも明確な道を指し示してくれる。そんな、男として大きな器を持つお父さんのことを、Yさんはきっと尊敬し、慕い続けていたんだと思います。
でもある日、とうとう最期の日が来てしまいました。最後は容体が悪化して自宅で看てあげることが不可能になり入院したのですが、入院先の病院でお父さんは息を引き取りました。
お父さんが亡くなったことにより、Yさんは長年に渡って続いた自宅介護から解放されました。これまでギリギリのとこで支え続けてきた肩の荷がやっと降り、Yさんは自由になりました。そんなYさんを見て当時の会社の社長は、「良かったな、Yさん」と言葉をかけました。「これまで本当に大変だったな。でもこれで肩の荷が全て降りて、やっと楽になったな。」そうYさんに言いました。
でもその言葉を隣で聞いていた僕は、違和感を感じました。確かに肩の荷は下りて、Yさんはこれから自由に好きなことをして生きていくことが出来るようになりました。何でも自分のやりたいように出来るようにもなった。でも「良かったな」は違うんじゃないか?と思ったわけです。
それから数日経ってから、Yさんはもぬけの殻のようになりました。お父さんのことで頭を煩わせる必要が無くなったはずなのに、まるで仕事に身が入らずミスばかり。自信満々だったかつてのオーラはすっかり消え失せ、見る影も無くなりました。見ていて痛々しいほどに。
これまでYさんは、お父さんを支え続けてきました。自分のことはいつも後回しにし、プライベートも全て犠牲にして懸命にお父さんを支え続けてきました。でも実は、Yさんがお父さんを支えていたのではなく、実はお父さんがYさんを支えていたのです。
確かにお父さんは病気で体も不自由になり、自分一人では何も出来なくなりました。Yさんがいなければ、生きていくこともままならない状態。だからお父さんがYさんに対して何かをしてあげられたわけではありません。でもYさんにとって、お父さんの存在そのものが心の支えだった。自分一人では何もできないお父さんでも、お父さんがそこに居てくれることに意味がある。お父さんが居てくれるからこそ勇気もわいてくるし、強い自分でいられる。仕事も人生も、お父さんが居てくれたからこそ自信を持ってここまでやって来れた。
Yさんは「お父さんにとても感謝している」と言いました。でもその感謝は、お父さんが具体的に何かをしてくれた事に対する感謝ではなく、お父さんの存在そのものに対する感謝。僕はYさんとお父さんの関係を身近で見続けることにより、感謝の本当の意味を知りました。
話は変わりますが、僕には息子がいます。僕は子育て中の父親ですが、子供を育てるというのは本当に大変なことです。
僕は若い頃は、毎日仕事ばかりしていました。仕事にのめり込み、いつしか仕事が人生そのものになっていました。
でも子供が生まれてから、人生が激変しました。仕事と子育てを両立させるため、仕事のウェイトをガクッと落としました。以前は休日でも自主的に会社に行って仕事をしていたのですが、それもスッパリやめ、出世コースからも自ら外れました。僕は子供が生まれたことによって、人生の方向性を大きく変えたのです。
子供が生まれたがために、人生や生活を変えざるを得なくなった。やりたいことも、思うように出来なくなった。じゃあ僕は子供を恨んでいるのか?子供の存在を足手まといだと思っているのか?
いいえ、むしろ反対です。僕は子供のことをとても尊敬しているし、とても感謝しています。
かつての僕はガムシャラに仕事をしていましたが、この記事の最初にも話した通り、人間関係は最悪でした。でも今ではこうして人間関係に関するブログを書けるほどになれました。あれほど苦手意識を持っていた人間関係の悩みを解決するためのきっかけをくれたのは、うちの子供です。
僕は子供が生まれて父親になりましたが、対人恐怖症の僕は、子育てでもすぐにつまづきました。「俺みたいな人間の子として生まれてきて、この子は本当に可哀そうだな…」正直そう思いました。でも僕が未熟なせいでこの子の人生を台無しにするわけにはいかない。何が何でも、この命に代えても、この子は立派に育ててみせる、そう自分に誓いました。
それから僕は、毎日子供と真剣に向き合いました。幼い子供を、親の付属品ではなく一人の独立した人間として認め、子供と同じ目線で向き合う。相手が子供だからといって力や圧力で抑え込むのではなく、対話によって互いに理解し合う。小さな子供であっても、一人の”人格を持った人間”として受け止め接する。
子供と真剣に向き合うことによって、僕の中の人間理解力は飛躍的に伸びていきました。その結果、仕事のウェイトを落として出世コースから外れたにも関わらず、社内の人間に対する影響力はむしろ反対にどんどん大きくなり、周りから必要とされるようになっていったのです。
僕は子供に、心から感謝しています。もちろん子供が僕に何かしてくれたわけではありません。むしろ手間のかかることだらけで、自分のことはいつも後回しです。ですが、子供が側にいてくれることによって、僕は人生を切り開くことが出来た。人生が面白いと思えるようになった。人として、大きく成長させてもらえた。僕は、子供が僕にしてくれた行為に対してではなく、子供の存在そのものに感謝をしているのです。
ちなみに余談ですが、僕と子供はこれまでまともにケンカをしたことがありません。衝突することが無いんです。もちろん僕と子供は親子と言えど違う人格ですし、価値観も考え方も違います。意見が合わないことも、もちろんあります。
でも仮に僕と子供の意見が違っても、僕は子供の意見を決して否定しません。たとえ子供の考えが間違っていると感じても、です。
よく「子供が親の言うことを聞かない」とかいう話を聞くんですが、ではなぜ親の話を聞こうとしないのか?それは「不安だから」です。人の意見を聞き入れることが出来ないのは、自分の意見や考えを否定されるのが怖いからです。自分を否定されるのが怖いから、仮に自分が間違っていると分かっていたとしても自分の意見を押し通そうとしてしまうのです。
ではこちらの話を聞き入れてもらうためには、どうすればいいか?それは相手である子供を安心させてあげればいい。例えば僕なら子供と話してて「それはおかしいぞ」「その考え方は違うんじゃないか」とか思っても、途中で話を遮らずに最後まで聞きます。そして聞き終わった後に、「うんうん、なるほど。お前の気持ちはよく分かるよ。」と子供の気持ちを必ず肯定してあげます。
ここで注意してもらいたいのは、僕は子供の考え方や子供のやったことに対して否定も肯定もしていないという事。行為や考え方は否定も肯定もしないが、子供の気持ちに対しては必ず理解を示してあげる。
すると、子供は自分の気持ちが分かってもらえた、自分の気持ちを受け入れてもらえたと思って安心するんですね。自分の存在を決して否定されない、自分の存在を受け入れてもらえるんだと分かると、次第に子供の表情から不安が消えていき、相手の考えを受け入れる体制が自然と出来て来るんですね。
そうした上で、「うん、お前の気持ちはよく分かるよ。それでね、例えばお父さんならこうするよ。お父さんなら、こう考えるかな。」と子供の考えを1つの意見として認めつつ親としての自分の考えを提案すると、こちらの意見を肯定的に聞き入れながら子供なりに考えてくれるようになります。
ということで今、僕自身の子育ての考えについてちょっと話させてもらったんですが、これは子育てに限った話ではないと思うんですね。大人同士でも同じことが言えるし、人間関係全般に言えることだと思うんです。あらゆる人間関係も、結局は子育てと同じという事です。
仕事でも、上司から頭ごなしに「お前は間違ってる!おかしいぞ!」なんて言われたら、カチンときて相手がもう何を言っても聞く気にならないですよね。でも上司が、「うん、なるほどな。お前の気持ちはよく分かるよ。」「お前がそう思う気持ちは、確かに分かるよ。」と言って自分の気持ちを理解し、自分の存在を否定することなく受け入れてくれたなら、「ちょっと相手の話も聞いてみようかな」という気になりますよね。自分の気持ちを理解し受け入れてくれた相手に対し、感謝と信頼の念も湧いてきます。
人に対し心から感謝するためには、まずは相手のことを理解し受け入れる事が必要。例えば相手のことを嫌って、相手のことを全否定した状態であるなら、相手が何をしてくれても全て否定的に受け止めるようになります。相手に感謝する以前に、相手の言葉や行為の全てを受け付けることが出来なくなってしまうという事です。人に感謝できないのは、相手のことを理解する努力が足りていないからです。
そして反対に、人から感謝されたいと思う場合も、相手に何かをしてあげるのではなく、まずは相手の気持ちを理解し受け入れてあげることが必要です。人というのは、自分の気持ちを理解してくれようとする人に対して心を開くものです。逆に自分の気持ちを全く理解しようとしてくれない相手に対し、心を開こうなんて思いませんよね。自分を理解しようとしてくれるからこそ、その相手に心を許し、そこから自然と感謝の念も生まれてくるのです。
「感謝できる人間になること」も「感謝される人間になること」も、結局同じなんです。相手のことを理解し受け入れなければ、真に感謝することもされることも無いという事。
そして相手を理解し相手の存在そのものに感謝できるようになれば、相手のあらゆる行為に対して感謝の念が生まれるようになります。そして自分を理解し受け入れ、自分の存在そのものに感謝の念を持ってくれるあなたに接した相手は、同じくあなたのあらゆる行為に対して感謝の念を持ってくれるようになります。仮にあなたが何か特別なことを相手にしてあげなくても、あなたがただ一緒に居てあげるだけで相手の心の中には感謝の念があふれ出し始めるのです。
ただそこに居るだけで、周りのみんなの心から勇気が湧いてくる。何もしなくてもただそこに居るだけで、周りが安心して自分の力を最大限発揮できるようになる。そんな存在になりたいと、僕は思います。
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