多数決=正解ではない。ネットやメディアで繰り広げられる現代版”魔女狩り”。

仁の本音

ネットが普及し、情報が一瞬で世界中を駆け巡るようになった現代。

またSNSやブログ、記事に対するコメント欄などを使い、今や誰もが気軽に発言したり情報発信出来るようになった。

やり方次第では、個人が強い影響力を持つことも出来る。

僕らは本当に面白い時代に生まれてきました。

 

でもその結果、多くの混乱も生じている。

ブログやSNSなどでの炎上騒ぎ。

有名人などの不祥事や不適切発言に対するバッシング。

 

何かが起これば、大勢の人間が一斉に叩き始める。

特定の人間を、徹底的に吊るし上げる。

自分の意にそぐわない人間を、大勢の人間でどこまでも追い詰めていく。

そうやって、自分と価値観の違う人間を排除していく。

まるで「お前は存在してはいけない」と言わんばかりに。

 

無数の不特定多数の人間が、よってたかって特定の人間を追い詰める。

これって、何かと似ていませんか?

僕はこの光景が、かつての中世ヨーロッパで行われていた”魔女狩り”のように見えて仕方がない。

ネガティブな感情が次から次へと感染していき、同調することによってみんなが一体化し、とてつもない力を持つ巨大なモンスターとなる。

そこからはみ出した人間は、その力によって容赦なく叩き潰されていく。

 

自分自身がモンスターに飲み込まれ、その他大勢の意思に操られてしまっていることに、あなたは気づいていますか?

 

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 人は”言葉”で殺すことが出来る

僕は基本的に芸能ニュースなどはあまり見ないんですが、昔から芸能界は不倫の話題で賑わっていますよね。

去年はベッキーと「ゲスの極み乙女。」の川谷絵音の衝撃的な不倫騒動。

今年に入っても、世界を股にかけて活躍する渡辺謙や、スピードの今井絵理子・上原多香子の二人の不倫、そして今年再ブレイクの斉藤由貴の不倫など、事欠くことがありません。

そして不倫という罪を犯した彼ら・彼女らは、関係者からだけでなく無関係な僕ら一般市民からも徹底的に追及され、追い詰められることとなりました。

 

もちろん彼ら・彼女らのしたことは、倫理的に間違ったことです。

なおかつ彼ら・彼女らは有名人でもあり、世間に与える影響というのも僕ら一般人とは次元が違います。

だから彼ら・彼女らがこの先芸能生命を絶たれるようなことになったとしても、それはやむを得ないことかもしれません。

 

でも僕は、ふと思うんです。

なぜ僕らのような無関係な人間から、彼ら・彼女らはここまで責められているのだろうかと。

 

確かに彼ら・彼女らは強い影響力を持っているので、自分の取る行動に対しては他の人間の何倍も注意する必要があると思います。

それが彼ら・彼女らに課せられた義務であり、もしそれが出来なければ表舞台から去るしかない。

つまり芸能人を辞めるなどして、自分の持つ影響力を手放すしかない。

でも彼ら・彼女らがいくら倫理的に間違ったことをしたとしても、僕らに何か実害が発生しているわけではない。

なのに何でこれほど多くの人たちが、まるで被害者であるかのように彼ら・彼女らを責め立てているのだろうか?

一体僕らは何の権利があって、彼ら・彼女らをここまで責めたてているのだろうか?

僕はそう思うんです。

 

例えばこの日本ではかつて、江戸時代までは上流社会において一夫多妻制という制度がありました。

より多くの子孫を残すため、ごく自然に発生した制度だと思います。

一応断っておきますが、僕は一夫多妻制が良いとか正しいとか言っているわけではありませんよ。

でも広く動物の世界を見渡してみると、自らの遺伝子を持つ子孫をより多く残すための繁殖戦略として、ごく当たり前のように一夫多妻制のような形がとられている。

ということは、子孫繁栄の観点から考えると、もしかするとそのほうが自然なのかもしれない。

生物学的観点から考えると、その方が正しいのかもしれない。

だからといって、もちろん僕は一夫多妻制に賛成するつもりはありませんけどね。

 

結局何が言いたいのかというと、人間の価値観や価値基準というのは時代や状況によって変わってしまうもの。

だから絶対的な善も、絶対的な悪も無いし、ものごとを善悪の二元論で決めつけようとすること自体に無理がある。

でも僕ら人間というのは目の前で起こる出来事に対し、正しいか間違っているか白黒はっきりと付けたがってしまう。

そして「自分は正しい、間違ってないんだ!」という安心を得たいがために、多数の人間が選ぶ方に無意識に流される。

そうして多数派の一員として、みんなと一緒に安全な場所から少数派の異端を攻撃する。

正義という名の免罪符を振りかざし、少数派を遠慮なく責め立てる。

どんなに残虐なことをしたっていい。

だって、みんなが選んだ方が正しいに決まってる。

つまりみんなと同じ方を選んだ自分は正しい、自分は正義だから、間違っている少数派を攻撃するのは悪を懲らしめるのと同じこと。

罪悪感など感じる必要は無い。

まるで魔女狩りをする中世ヨーロッパの人たちのように、攻撃はどんどんエスカレートしていく。

 

 

なぜ僕がここまで思うようになったのかというと、ある記事を目にしたことがきっかけでした。

 

みなさんは”ケビン・カーター”という南アフリカの報道写真家を知っていますか?

もしかすると、「ハゲワシが餓死寸前の少女を狙っている【ハゲワシと少女】という写真で1994年にピューリッツァー賞を受賞した人」と言ったら、思い出す人もいるかもしれません。

彼はこの【ハゲワシと少女】という写真でピューリッツァー賞を受賞できたにも関わらず、その授賞式の約一か月後に自ら命を絶ちました。

栄誉ある賞を手に入れたにもかかわらず、彼はなぜ自殺をしてしまったのか?

 

当時彼が写真を撮るために足を踏み入れたスーダンという国は、1983年から続く内戦と干ばつのために、子供たちを中心に深刻な飢餓が起こっていました。

しかしスーダン政府は取材陣を締め出し、国の内情が国外に伝わらないようにしていたそうです。

そういった状況の中カーターは、この国で起こっている内戦の状況を伝えようと、危険を覚悟でスーダンに潜入していきました。

そしてカーターが訪れた国連などの食料配給センターがあるアヨドという村でも、飢えや伝染病で1日に10人から15人の子供たちが死んでゆくという酷い有様でした。

目を覆いたくなるような光景に耐え切れず、彼はその村から離れようと村を出ました。

 

その時です。

彼の目の前に少女がうずくまり、そしてそんな少女を狙うかのようにハゲワシがゆっくりと近づいていく…そんな場面に出くわしました。

彼はその場面を、自らのカメラに収めた。

この国の惨状を伝えるため、彼は自分の出来ること・自分に課せられた使命を全力で全うした。

 

その後1993年3月26日付のニューヨーク・タイムズにこの写真が掲載されると、世界を巻き込んだ大きな反響を呼び始めた。

しかしその反響の多くが、彼に対する誹謗や批判だった。

「少女が目の前で苦しんでいるのに、なぜ助けない?」

「写真を撮る暇があるなら、救いの手を差し伸べるのが先ではないか?」

「人命より報道を優先する彼の姿勢が理解できない」

受賞後は、彼を”人でなし”呼ばわりする声で溢れかえることとなった。

 

その後彼は、自殺した。

自殺の原因が、この写真に対する批判だったのかは分からない。

実際彼は過去に躁うつ病を患っており、自殺未遂も二度ほど起こしている。

元々彼は、精神的に問題があったのかもしれない。

でも、危険を冒してまでもスーダンの惨状を伝えるために撮影してきた写真が世界中から非難され、挙句の果てに自分の人格までも否定されてしまったら、どうだろうか?

 

そしてこの写真を見ただけでは分からないのですが、実はこの少女のすぐそばには、少女の母親がいたそうです。

少女がいたのは食糧配給センターであり、母親が食料を受け取るために一時的に子供を腕から離しただけ。

すぐそばに母親がいるのだから、カメラマンのカーターがわざわざ少女を助ける必要などない。

そしてカーターは、この少女がその後立ち上がり、その場を去っていくのを見届けている。

 

もちろんこの写真を見ただけでは、そんな事情は分かるわけない。

本人や関係者でなければ、知る術もない。

確かに、知らないことは仕方がない。

でも、知るための努力をしないのは、違う。

知るための努力をしないというのは、相手を理解する気が無いということ。

相手がなぜそんなことをしたのか?

なぜそんな行動をとったのか?

それを知ろうともせず、その人間がどんな状況に置かれていたかといった想像すらもしようとせず、表面上の単純な善悪の基準に照らし合わせて相手を裁く。

思考停止を起こした状態で周りの意見に同調(一体化)し、特定の人間を吊し上げる。

 

人は、言葉で殺すことが出来る。

他者を批判・攻撃するようなネガティブな言葉が多く集まれば、人など簡単に殺せるほどのエネルギーとなる。

一定数のネガティブな言葉が集まれば、人の人生を破滅に追い込むことなど造作も無い事なんです。

しかも質が悪いことに、多くの人が同意・賛成していることが正しいとも限らない。

魔女狩りがそうであったように、間違ったことを多くの人が「正しい」と信じ込むことによって、人を死に追い込むことだってある。

 

例えば”人殺し”は良くないですよね。

どんな理由や事情があろうと人を殺すことは決して良くないことだというのは、誰しも同意してくれると思います。

多くの人間が、「人殺しは間違っている」と思っている。

でも仮に、僕の子供が誰かに殺されそうになっていて、子供を助けるには相手を殺すしかないという状況だったら、僕は間違いなくその相手を殺すと思う。

でもやっぱり、どんな理由があろうと人殺しは良くない。

 

しかし、かつて戦時中はより多くの敵を殺した人間が英雄扱いされた。

敵とはいえ人殺しが国の法律として合法化され、より多くの敵を殺すことが正しいとみんな思っていた。

でも憎き敵とはいえ、敵にも家族や愛する人がいる。

その人が死ねば、悲しむ人がいる。

敵も僕らと同じ人間。

でもそんな事情など関係ないし、考える必要も無い。

そしてそれが正しいと、多くの人が信じていた。

 

そして宗教でも、同じことが言える。

例えば、”キリスト教”がありますよね。

キリスト教といえば、世界で最も多くの信者数を誇る最大の宗教組織。

日本人は一般的に宗教心が薄いのでピンと来ないかもしれませんが、世界中でほとんどの人が何らかの宗教を信仰しており、その宗教に対する信仰心がとても強い。

また、道徳・倫理といった人としての基準・生き方なども、宗教を通して学ぶことが多い。

そして世界で最も多い信者数を誇るのが、ユダヤ教から生まれたキリスト教とイスラム教。

 

ところであなたは「ノアの方舟」というのを知っていますか?

かなり有名な話なので、多くの人がそのあらすじは知っていると思います。

この「ノアの方舟」の話は、キリスト教・イスラム教の元となったユダヤ教の聖典”旧約聖書”の創世記の中で出てくるのですが、その内容は「悪で満ち溢れていた人類を浄化するため、神が洪水によってノアの家族以外の人間を根絶やしにする」というもの。

つまり神が、悪に堕落した人類を大虐殺した。

そしてユダヤ教・キリスト教・イスラム教の多くの人が、この神の行為が当然正しいことだと本気で信じている。

 

もちろん僕は、宗教批判をするつもりはない。

ユダヤ教やキリスト教・イスラム教が間違っているなんて言うつもりはない。

そもそも僕の中にある善悪の判断基準だって、正しいかどうかなんて分からない。

ただ、この「ノアの方舟」の教えを通して、神が人殺しを容認してしまったと言える。

もちろん聖書の中では「人を殺してはならない」とは教えているけれど。

 

でも、神は悪い人間たちを殺した。

聖書には、そう書いてある。

そしてその聖書を読むのは、僕ら人間。

聖書に書いてある内容をどのように解釈するかは、僕ら人間次第。

 

聖書を信じる人の数は、世界中でとてつもないほどの人数になる。

もし僕ら人間が聖書を間違った解釈をしてしまった時、神が行った大虐殺が人の手によって行われないか、僕は心配でならない。

実際これまでの歴史の中でも、宗教を理由とした戦争や殺し合いが幾度となく行われている。

十字軍の遠征、ユグノー戦争、三十年戦争、イスラム教におけるジハードやテロ…数えきれないほどの人間が正義の名のもとに殺されてきた。

多くの人が信じることが正しい、多くの人が信じることが正義、そして少数派は間違いであり悪…そうやってものごとを深く考えず思考停止に陥り、多数決に流される。

「多数派=正しい」という間違った思い込みが、ものごとの本質を見えなくさせていく。

「多数派=正義」という間違った思い込みが、少数派を”異端・悪”と決めつけ、迫害していく。

 

ここ最近のネットやメディアによる炎上騒動を目にするたび、僕にはそれが、人間の残虐性をむき出しにした魔女狩りに見えて仕方がない。

 

 

 

 多数決=正しい?

多数決が、決して正しいわけではない。

でもやはり僕らは、多数決が世の中の常識だと思い込んでしまう。

多数決が正解であり善であると、ものごとを深く考えることもせず思い込んでしまう。

 

僕らは「多数派=正しい」というわけではないことを、知っておかなければならない。

正しいと信じ込んで多数派に流され、自分で考えることもせず自分で判断をしようともしない、そんな思考停止を起こしてしまうことが一番危険なこと。

自分の考え・自分の意思を失うということは、自分の人生の舵が取れなくなるということ。

自分の人生であるにもかかわらず、人生の主導権を手放し、人生を他人任せにしてしまうのと同じこと。

他人任せにして何かあったとしても、誰もあなたの人生の責任を取ってはくれない。

自分の人生は、自分でしか責任はとれないし、自分で何とかするしかない。

思考停止を起こして周りに流されている場合じゃないんです。

 

そして僕ら人間には、赤の他人を裁く権利など誰にもない。

もし自分に利害関係が絡んでくるのなら、話は違ってくる。

自分を守るために、時には戦わなければならない。

でもそうでないなら、僕らには他人を裁く権利など無い。

 

僕ら人間というのは、常に正しい側にいたいと思うもの。

自分は間違っていないんだ、常にそう確信していたい。

自分は正しいんだと、周りのみんなに証明したい。

少数派を攻撃するというのは、自分が正しい側にいるんだという証明と安心を得るためのもの。

僕ら人間は自分を守るために多数派に所属し、自分の立ち位置を周りにアピールするために少数派を攻撃する。

その結果僕らは、被害者でもないのに被害者であるかのように少数派の赤の他人を攻撃し吊し上げる。

思考停止を起こし、周りの声に流され、その声に同調し、他人を批判する。

そして膨れ上がった第三者の不用意な無責任発言が、人を追い詰め、人を殺す。

 

僕らはいつから無関係な赤の他人を裁けるほど偉くなったのか?

僕らの中にある善悪の基準など、簡単に周りからの影響を受け、その時その時でコロコロ変わってしまうようなあやふやでいい加減なもの。

僕らは一体、どんな根拠を持って他人を裁いているのか。

 

昔に比べ現代は、名もなき一般の人間がネットを通じて様々なことを発言できるようになった。

SNS、ブログ、youtube、記事へのコメント欄…自分の考えを世界に向けて発信するための下地が出来上がった。

そういう意味では、民意が反映されやすくなったと言えるかもしれない。

 

でも自分の発する言葉は、ネットを通じて拡散され、膨れ上がり、場合によってはとてつもない力を持つモンスターになる。

ネット上で発した安易な言葉が、人を殺すことだってある。

言葉には、それだけの力がある。

声が集まれば、世界さえ動かすこともある。

戦争や暴動だって起こせる。

 

だから僕らは、自分の発する言葉には責任を持たなければならない。

もちろん常に正しい発言をするなんてことは、誰にも出来ない。

出来ないからこそ、周りの声に流されず自分の頭できちんと考え、自分の意思で判断し発言しなければならない。

 

多数決なんて常識に惑わされてはいけない。

自分の常識は、自分で決める。

多数決なんて、多数派の意見なんて、クソくらえだ。

そんなものに操られるな。

そんなものに惑わされるな。

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